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 研修医終了後1年で長者番付に載る!?(医局シリーズ④)

 研修医を終えたころ(昭和56年)、医局が分裂状態でしたので、一時大学病院を離れ、ある大阪の精神病院の内科医で勤務し、実際は火曜日、木曜日が1日勤務で、検診会社をもっていたため検診医としても働いていました。。月曜日、水曜日、金曜日は大阪城の近くの一般病院の午前の外来、午後から検診会社へ行ってました。また高槻の病院には金曜日の夜間診と土曜日午前に放射線医として胃のレントゲンを撮って、そして月1回は土日の当直を川西の老人病院に行っていました。給与は4ヶ所からいただいておりましたので、年収は1000万円を超えておりました。当時は年収1000万以上で長者番付に、私も載りました。でもそれを知ったのは高校の同級生の友達から電話があって初めて分かりました。翌年大学病院に新設の第5内科ができ、医員で就職しましたが、去年源泉徴収されていた金額より少ない給与(18万)で赤字でも、日常生活は不安のない快適な職場でした。理由は収入はあっても、日雇い労働者(毎日職場が変わる、次仕事があるか保障がない)の気持ちで、健康保険もなかったので病気や怪我の心配は常にあったからです。