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 お盆休みのできごと(つかの間の休暇)

 8月12日からお盆休みに入りますが、8月11日の夜、受験生の次男が夏期講習に行って帰宅が11時半、そして長男がバイトを終えてから帰宅し、12日の午前2時でした。お腹が減っているということで、長男、次男、おやじ(私)の3人でファミリーレストランへお茶&食事に出かけました。3人で会話することが少なかったためか、朝5時までファミレスにおりました。受験生でストレスが溜まっていると思いましたが、お兄ちゃんが弟を元気付けてくれていたのは、兄弟はいいなと思いました。ちなみに私に兄はいますが、道楽者であまりいい思い出はありません。約2年前に右半身麻痺になり、施設でリハビリしています。2ヶ月に1回程度面会に行って、例の健康食品;エグノリジンE/G(物忘れに効果がある健康食品)を渡しています。右麻痺は失語を伴いますので、飲んでもらって4ヶ月になります。元々口べたでしたので、効果があったかはっきりしません!?

 当院の節電は数年前からやってます!

 当院はエアコンを新型に、この2年間でほとんど入れ替えました。旧式から比較するとかなり節電になっていると思います。そして結果的に節電になる方法があります。一つはカーテン、もう一つは窓ガラスのコーティングです。まず前者は断熱レースカーテンです。UVカット、太陽熱カットの機能を有してます。いわゆるハイテクカーテンです。後者は窓ガラスコーティング:エコガラスコートです。人体に有害な紫外線を、熱いと感じる近赤外線を大幅CUT! エコガラスコートを処理した窓ガラスは熱を伝えにくく、室内の冷暖房の効果を高め、エネルギー費を大幅に節約!これらを2年前からやってきました。そしてオール電化にもしました。電気代も5~6万円かかっていたのが、3~4万円になってます。でも初期投資がかかり過ぎ、一般家庭にはお奨めできません。断熱カーテンと窓ガラスコーティングで100万円はかかっています。大豪邸ならいいかもしれません。ちなみに自宅は小豪邸なのでオール電化にはしておりますが、断熱カーテンやガラスコーティングなどはやっておりません。

 研修医終了後1年で長者番付に載る!?(医局シリーズ④)

 研修医を終えたころ(昭和56年)、医局が分裂状態でしたので、一時大学病院を離れ、ある大阪の精神病院の内科医で勤務し、実際は火曜日、木曜日が1日勤務で、検診会社をもっていたため検診医としても働いていました。。月曜日、水曜日、金曜日は大阪城の近くの一般病院の午前の外来、午後から検診会社へ行ってました。また高槻の病院には金曜日の夜間診と土曜日午前に放射線医として胃のレントゲンを撮って、そして月1回は土日の当直を川西の老人病院に行っていました。給与は4ヶ所からいただいておりましたので、年収は1000万円を超えておりました。当時は年収1000万以上で長者番付に、私も載りました。でもそれを知ったのは高校の同級生の友達から電話があって初めて分かりました。翌年大学病院に新設の第5内科ができ、医員で就職しましたが、去年源泉徴収されていた金額より少ない給与(18万)で赤字でも、日常生活は不安のない快適な職場でした。理由は収入はあっても、日雇い労働者(毎日職場が変わる、次仕事があるか保障がない)の気持ちで、健康保険もなかったので病気や怪我の心配は常にあったからです。

 サッカー場にAEDの設置を!

 サッカーをする人、観る人はだれでも知っている元横浜Fマリノスの松田直樹選手が練習中に心不全(死因は心筋梗塞)で死去したのがきっかけでAEDの設置がいわれている。確かに心肺停止には効果がありますが、一つ大事なことを忘れないでほしいのです。松田選手のように心筋梗塞の場合は心臓そのものにハンディー(病気)がありますので、AEDを使用しても効果が薄いということです。心臓に疾患がなくて、たまたま心臓が止まった状態の人に使用して初めて有効になります。交通事故のとき、水に溺れたときなどは心疾患がないことが多く、助かりやすいという訳です。

 久しぶりのウエイクボード!

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 男3人でウエイクボードをしに、明石の海へ行ってきました。ただ、牽引するのが、釣り船用の船(写真)でした。私以外は若くて元気な人でした。私は今年初めに右膝捻挫で外側靭帯断裂をしていますので、ウエイクボードができるかが心配でした。いざ乗ると軽く乗れました。57歳にしてはよくやるなと思いましたが、怪我してはいけないので、1度だけ滑走してやめました。楽しかったのは釣り船の上で昼ごはんを食べたのはとても美味しく、気持ちがよかったです。タダ本当に暑かったです!顔や手足が日焼けをしてしまい、痛くなりました。帰宅後直ぐに酸素ボックスに1時間半入りました。意外と日焼けで赤くなっているのが取れ、日焼けで皮膚の痛みも軽快します。今日はゆっくり眠れそうです。

 施設長に感謝;(シルバーランドの足跡①)

 この施設長とは介護老人保健施設シルバーランドの創設者です。この7月で退職されました。長い間シルバーランドのために指揮していただき、しっかりとした組織にしてから勇退してくれました。本当にありがとうございました。20年以上前に依藤診療所を母体に老健を立ち上げましたが、当時は施設の住所;小野市葉多町261番地には下水道がなく、当施設の排水及びトイレの汚水などは、くみ取りでスタートしました。これは日本で初めてだそうです。水洗トイレになっていない施設が初めてだということです。地元でこの施設に猛反対する方がおられ、通常世間では当たり前の浄化槽を設置し、排水することに反対されるなんて夢にも思いませんでした。当時の広瀬市長(のち収賄で逮捕されてます)がそれを知り、シルバーランドの前まで1年くらいで下水道工事をしてくれました。地方自治体として施設がくみ取りなんて小野市の恥と思ってくれたのでしょう!当然当施設の贈賄容疑はありません!くみ取りの間は屎尿は専門業者に、一般排水は地下タンクに貯め、その水は診療所の下水道にタンクを積んだトラックで運んで流していました。当初は人手がなかったので、院長の私が診療の合い間をみて運んでました。もう訳なかったのは、ご近所に排水処理で臭いが発生して、ご迷惑をかけているのを知りませんでした。ご近所の方、本当に1年間いやな思いさせてすいませんでした。

 叱られました!(医局シリーズ③)

 研修医のとき、忘年会があり、内紛の中の宴会は主流派と非主流派がそれぞれの宴会が催され、中立的な私はどちらも出席しました。主流派を仕切っていたDrから、こっぴどく叱られました。今でいう誹謗中傷でした。あんなに怒られたのは生まれて初めてのことです。内容は裏切り者扱いでした。おぼちゃま育ちの私は2・3日は眠れないほどショックでした。もっと悲しかったのは、同じ行動をとったやつが3人いました。以後その3人は私と口をきいてくれませんでした。みんな主流派につき、私に嫌がらせというか、いじめというか、偏差値が高くても人間性に問題がありそうで、情けななく思いました。汚い手を使い、自分らに従わない者を排除しようとする行為、尊敬していたDrを一瞬にして、私利私欲の塊、Drの殻をかぶった悪人ですね!それ以後、医者全部を信用することがなくなり、この日からお坊ちゃまも卒業しました!!!

 昭和54年に研修医で入局!(医局シリーズ②)

 めでたく第67回医師国家試験に合格し、兵庫医大第3内科に昭和54年6月に入局しました。どこの内科でもよかったのですが、友人がいたのでここにしました。宝来教授(奈良医大系)、杉田助教授(大阪大学系)、講師や助手は奈良医大出身がほとんどでした。宝来教授は塵肺で有名な方です。ところが、宝来教授が退官し、次期教授に杉田助教授がなるのに医局員が待ったをかけました。それから医局は内部分裂し、収拾がつかないため「3」と「5」に分かれました。研修医は5人いましたが、一人は他の病院へ、私は次期教授方へ、あとの3人は退官する教授方へと分裂しました。この3人は2人は教授になっています。一人は頭もいいし、やさしい人でしたので、教授になれてよかったとおもいましたが、もう一人のやつは性格はいまいち、頭もいまいち、本当に運のいいやつなんでしょう!?

 「オペラ座の怪人」を観てきました。(7月31日)

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 劇団四季「オペラ座の怪人」を京都劇場で観てきました。20年以上前から行きたかった演劇でした。診療所スタッフおよび隣接する薬局スタッフらと計8人で観劇し感激してきました。朝9時半に診療所に集合し、レンタカーのアルファード2400で山陽道、中国縦貫道、名神高速道、京滋バイパス、阪神高速京都線を通り、約100kmの道のりを1時間半で京都駅に着きました。劇場のエリア内でチケットを見せると食事代が1割引になりますので「京やさい料理の接方来」で昼食を取りました。お店の中はいっぱいでした。ストレスの多い仕事をしている私たちは、心身ともにゆっくりできたと思います。また、そこには鎧・兜を着けて写真を撮るところがあったり、日本刀が飾ってあったりしてました。

 大学の医局の集まりが7月30日(医局シリーズ①)

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 毎年この時期に兵庫医大総合診療内科を中心とした集まりがあります。元々兵庫医大第5内科が前身で、現在は総合診療内科になっています。以前は内科は5講座ありました。第1内科(循環器、神戸大系)、第2内科(血液、ホルモン、大阪大系)、第3内科(代謝、肝臓、呼吸器、奈良医大系)、第4内科(消火器、弘前大系)、第5内科(呼吸器、神経、大阪大系)と出身大学を中心とした編成になっておりましたが、現在は臓器別に再編成されております。私は旧第3内科に研修医で入局し、その後内紛が生じ、奈良医大系と大阪大系の紛争で「3」と「5」に分裂しております。翌々年には第5内科へ移りました。第5内科は新しくスタートしましたが、教授、講師、助手、医員(私)の4人でした。秘書もいないので雑用はほんどやっていました。病院の当直も3日に1回、土日も月に2回の当直がありました。労働基準法なんてまったく関係のない世界でした。写真は左から准教授、友人(開業医)、私、教授です。もう一枚は今流行りの踊りをやっていました!?